好き

好きという気持ちはココロから芽生えるものだから、凄く自然でピュアなもの。

人間が頭を使って決めた道徳や倫理には当てはまらない。

そして凄く好きになると物凄く痛い思いをするもの。

先日友人が1回勝負の本番で思うように音楽を奏でる事が出来なかったと苦しんでいた。

すっごくよく分かる。

それは物凄く好きだから起こる感情。傷つき、モンモンとその事を思いながら生きていく。

私もある音楽のワンフレーズが弾けなくて5年以上苦しみ、そのフレーズを弾くときは気絶するくらい震えた。

好きだから起こる感情。

好きなのに、逃げて楽になりたいと思う感情。

だけど好きだからやっぱりズーッと考えてしまう感情。

私が好きなんだから誰にも文句言えない。

でもね、苦しくても、胃に穴があいてしまうほど辛くても、何も感じない人生よりいい。何かを、誰かを好きになると、人の痛みがよく分かるようになる。そして優しくなれる。

生きてると大変だ。

もう暫く傷つきたく無いと思ってる時にまた好きなものが出て来たりする。厄介だけど、一回きりの人生だからそれをエンジョイする事にする。

後で振り返ると、案外楽しかったし、頑張ったなあって自分が幸せだった事に気づく。

Stradivarius in Italy

先日イタリアのリボルノという港町にある、サンフェルディナンドという素敵な教会でストラドを弾いてきました。

天井の高い石造りの素敵な教会で弾くストラドの音は甘い音で天に昇って行くように響きました。

お仕事頑張ってると良いこともあるものですね。

イタリアで素敵な方々ともお会いでき夢のような時を過ごさせて頂きました。このプロジェクトに関わってくださった皆様に感謝でいっぱいです。

with Brad Repo

I went to play a Stradivarius at San Ferdinando Church in Livorno, Italy.

The Strad’s sweat sound covers entire high ceiling church .

I met wonderful people as well. It was like a dream…

I really appreciate generous men who involved with this project.

Thank you so much!!

熊本地震 – Kumamoto Earthquake

I would like to say thank you to

People who supported our Kumamoto Earthquake charity concert in 2016,
People who support our MTT MUSIC STUDIO,
And
Kumamoto friends who are trying hard to recover from Kumamoto earthquake .

We will try to support my home town from Hong Kong.
I will play my piece ‘’KUMAMOTO’’ today.🍀🎧

** I will also post here thank you note to people live in Hong Kong
And Macau from Kumamoto Prefectural governor, Mr.Urashima.

2016年熊本地震のチャリティーコンサートでご支援くださった皆様、
MTT MUSIC STUDIOを応援して下さってる皆様、
そして熊本で日々復興を願い力を注いでいる皆様、
心よりお礼申し上げます。

熊本に帰ると倒れないか心配になるくらい復興のために頑張っていらっしゃる方をたくさん見ます。
私たちは一人ではありません。
疲れたら一度立ち止まり一息入れてください。そして助けを求めればいいんです。必ず応援してくれる人いますから。
皆さんが元気でいることが一番大切ですよね。

今日は自作自演のKUMAMOTOをお送りします。この録音は最も被害の大きかった震源地近くの益城文化会館で震災前に収録したものです。素晴らしい益城文化会館でまた弾けますように…

**熊本地震の発生から2年を迎えるのに際し、熊本県の蒲島知事から香港・マカオの方々への御礼メッセージを頂きました。

在香港日本国総領事館ホームページ掲載
日本語版
中国語版

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指揮者の力量

香港フィルは先週1週間American Ballet Theater の公演の音楽をピットで担当してました。

リヒャルト シュトラウスの

“ホイップクリーム”

と言うバレー。

曲もかなり難しかったけど、それなりにやり甲斐があって楽しかった。

今回びっくりしたのは、本番しか振らない指揮者が出てきた事。何も知らない私はスタンドパートナーに弾く直前、

“今日指揮者病気なの?

あの人誰?”

と質問責めにしてしまった。

今回のバレーには2人指揮者が居たそうな。その指揮者は毎回リハには出席していたのでアシスタントかと勘違いしていたら、本番を振る指揮者だった!

うちらと一回もリハーサルで合わせてないのに、しかもダンサーとも合わせないといけないのに、大丈夫か?と心配した。

が、この指揮者、

“OK,let’s do it!”

とオケのメンバーに言って指揮台に駆け上がる。そして華々しくryou両手を広げて会場の人たちにお辞儀をする。役者さんのようだった。

指揮を降り出したら全身で音楽を語り出した。小さいオケのミスなんて気にしない。大きな音楽の流れをからだ全身で表現している。時にはダンサーと一緒に踊ってたりもする。

彼が音楽に息を吹きかけて音楽が動き出した。

決して彼は細かいビートを振らない。激しいところは大きなジェスチャーをからだ全身で見せる。

柔らかいところはまるでアクターのように顔も柔らかい雰囲気を出す。

1幕があんなに短く感じたことなかった。

彼は音楽を知り尽くしていて、難しいところは決して外さない。アンサンブルの難しいところはシンプルにかつ明確に指揮を私たちに見せた。

音楽の大きな流れが大切と言うことを再認識させてくれた。身体全身で音楽を表現する指揮者と共演して気が引き締まった。

4月9日のリサイタルまで頭切り替えて頑張ろう!

Whipped Cream

Importance of having independent skills ~learned from Wagner Ring Cycle

HK Phil has just finished the concerts and recoding of Wagner Ring Cycle. It took for 4 years to complete.

After all, I got muscle ache and tiredness, but I felt more fulfilment which I did not feel for long time.

All four operas were super long(4.5-6hrs), so Maestro,Musicians, Audience have to be really ready to get through the trip until the end.

Importance of having Independent skills 

What I learned from this opera was importance of having good Independent skills. More than 200people tried to make this opera including Maestro,Musicians,Stuffs and Recoding Engineers. We surely need good team work to make good music. Then why do I talk about independence?

We some times mistake during the show. When we do mistake, we immediately withdraw the sound and we rely on some stronger player who are good at that moment. We both have to know the timing of withdrawal and takeover.Both player who mistake and player who take over the line are required to have technique and experience.

 I learned that it is important to have good independent skills from this project.

The independent players know what they are good at and they know when to withdraw. And they can keep working good day and bad day.

What is the meaning of professional?

Orchestra need to have good teamwork to make music. Players who can make good teamwork have own independent skills and capacity to accept unfortunate accidents. And they can find other player’s strong parts. If they think other player can play specific place better than them, they can immediately step back for stronger player. I will call these players are the professional.

I might change my opinions in the future…who knows? But I felt strong right now 🙂


I talk about the importance to have independent skills from musician angle. I believe that it is same for other jobs as well.

自立する事の大切さ〜ワーグナーリングサイクルから学ぶ

先日香港フィルは4年に渡るビッグプロジェクトワーグナー作曲のリングサイクルのコンサートとCDレコーディングを無事終了しました。

筋肉痛、疲労感は有りましたが、この様な達成感を得られたのは久々でした。

第4章の神々の黄昏は最長5時間演奏です。指揮者も演者も聴衆も気合いがないと休憩入れても6時間かかるオペラを一緒に過ごすことはできません。

自立する事の大切さと意味

このオペラで学んだことは、自立する事がいかに大切かという事でした。

オペラは指揮者、演者、スタッフ、レコーディングエンジニアなど総勢200名以上の人の努力で出来上がったものです。なのにどうして自立??と思われる方もいらっしゃるでしょう。こんな長時間のオペラはメンバーの協力無しに成り立ちません。だからこそ一人一人が自分のタスクを引き受けられる技量がないといけないのです。

当然コンサート中で間違うことはあります。そういう時は速やかに引き下がり(弾いている音量を削ること。実際は弾いてます。止まることもありますが、弾いた振りはしなければいけません。)、他のその部分に強い奏者に演奏を任せます。間違った方も助ける方も技量と経験がなければ出来ない技です。私はこれこそが本当の意味で自立している演奏者だと思います。(たまに経験の浅い人はそれを分からずに自己主張しすぎとか言いますが、だいたいそういう人は、周りが見えてないだけの時の方が多いです。笑。)

自立している人は、自分に何ができるか把握しているし、引き際もよく知っています。そして事が上手く運んでいる時もそうでない時もちゃんと仕事ができます。

プロの意味

オーケストラで作品を創って行くにはチームワークは欠かせません。このチームワークができる人は、自立していて自己タスクをこなせる技量と器を持っています。そしてそういう人は、他人のいい所もよく理解し、自分よりその人の方が事が上手く行くと思えば、その人に仕事を委ねる事ができます。

私はこういう方をプロと呼んでいます。


今回は音楽の面から自立するという事を書きましたが、これは人生設計にしても他のお仕事にしても同じ事ですよね。

 

 

 

一年を振り返って〜コンサートの醍醐味〜

皆さま、今年も温かい応援どうもありがとうございました。

今年は念願の12月25日にクリスマスコンサートを音楽好きの皆さんと一緒に過ごせることができて、なんて幸せ者だろうと感謝しております。

今回のクリスマスコンサートでは普段とは違い、照明も暗くしてキャンドルライトにしてみるとか新しいことにも挑戦しました。

如何でしたでしょうか?

ピアニスト小椋にはコンサートの進行、ピアノでは無理難題を要求してしまい、申し訳ないなあとは思いつつ、ついつい甘えて頼ってしまいました。なのに、“大丈夫ですよ~、もっと言ってください”といつもニコニコ。前向きで一途な姿勢にはいつも感心させられます。

今回彼のおはこのピアノソロを弾くと言うのも私が提案したことでした。申し分ないほどの出来で本番も楽しみにしていました。

そこで“メモリースリップ”いわゆる“ど忘れ”が起こった。

こう言う事は誰にでもあります。皆さんにもありますよね?

そこで彼の観客に対する応対、その後どう演奏を続けるかの判断は自慢出来るほど素晴らしかったです。

この事は小椋自身がこのブログ**でとても良く書いているので、是非是非読んで見てください。

**

エゴと向き合う

ライブコンサートと言うものは人生そのものです

準備万端と言えるほど備えたコンサートでも想定外のことが起こります。

練習時間が取れなかったり、疲れている時に予想外にうまくいくコンサートもあれば、出来る事は全てやったと言うコンサートで落ち込むほど裏目にでる演奏になってしまうこともあります。

演奏歴40年の私にも色々とありました。

コンサートの途中で止まってしまい、その後10年以上人前で弾くことすら怖くなった事もありました。

その後どんな小さなコンサートでも自分から進んで弾くようにしました。

コンサートは演奏者、スタッフ、観客みんなで作るもの

一つその中から学んだのは、演奏する時は必ず観客がいて、その方達と一緒にそのコンサートを作っていけると理解した時から、コンサートが楽しいものに変化して行きました。

今回のコンサートにしても、観客が小椋を一生懸命見守ってくださる温かい気持ちがこのコンサートと私たちを救ってくれました。

演奏者が素直に気持ちを表現すると、観客の皆さんも素直に見守ってくださいます。逆に演奏者が傲慢だったり、観客を信じていないと、観客の皆様も心を開いてくださいません。

私どもは皆さまの様な観客に見守られて、本当に幸せものです。

私達は完璧ではない。ありのままの自分を受け入れる

もう一つは、私たちは完璧ではない。失敗もするけど良いところもある…と自分を素直に受け入れる事です。

そうすると、自分が大事なのではなく、音楽が大事だと言うことが見えてきます。

毎回その音楽に素直に向き合うと言う姿勢が整ってくると、予想外の演奏と言うものは遠ざかっていくような気がします。

残念ながら未だにコンサートがどのようなものになるかなどと言うものはコンサートが終了するまで分かりません。

少しでも私どもの書いたことが参考になればと思い書きました。

重ねて、

ライブコンサートと言うものは人生そのものです

失敗はつきもの。

失敗したらまた起き上がって対処すれば良い事。

周りにいるスタッフと観客と一緒にまたそこから作っていけば良いこと。

ライブコンサートは人生の縮小版みたいなところがあります。

みんな真剣。

だから感動も大きい。

失敗のないCD聞くよりずっと…いい

このような私どもを見守ってくださり本当に有り難うございます。

来年も色々仕掛けていきたいと思いますので、引き続き一緒に冒険していただけると嬉しいです。

どうぞよろしくお願い致します。

良いお年を!!

田中知子

エゴと向き合う

音楽の力

音楽が始まる瞬間。

この甘美な時間に、いつもすっかり心を奪われてしまう。楽しく、苦しく、甘く、切ない。およそ人間の心から湧き上がるほとんどの感情がこの瞬間に詰まっているのではないかと思うほどだ。音楽は今から始まり、いずれ終わる。それを知っているから、その曲に詰まった生命力そしてその演奏者が託す思いをすべて感じようと細胞がざわざわする。

これがために人は音楽に魅入られる、とりこになる。いい演奏を聞くと”魂を吸い取られた”と言うことがあるが、この大げさとも思える例えは他に都合のいい表現がないからではない。影響力のある音楽をきくとき、実際に魂を吸い取られてすっかり違う自分になっていることがある。人によっては明るく前向きに、しかし人によっては暗くシニカルに、それまでの魂を吸い取られすっかり入れ替えられてしまうほどの力が音楽にはある。

だからこそ、自分が演奏する側に立ったときには聞いて頂く方にはその音楽の力を十分に味わって欲しいと願う。それは僕が音楽から受け取ってきたものに対するささやかな恩返しでもある。奏者として音楽に託した気持ちが観客に伝わるなら、練習の苦労は吹っ飛ぶ。

今回のクリスマスコンサートではその願いが完全に裏目に出、破綻した。

今も思い出すたびに顔から火が出そうな体験。ただ僕のこの悲惨な体験が誰かの役に立つかもしれない。コンサートから1週間足らずしか経過しておらず心の傷は生々しくかさぶたも取れてない。ただ、この傷は折に触れてその痛みを思い出したほうがいい傷であるという直感はある。それは誰の心にも幾つかある傷で、それ自体が人格の一部となっているような傷。

奈良の実家で日本酒を鎮痛剤として舐めながらこの年の瀬にキーボードを叩く。

20年弾いた曲、2週間しか弾いてない曲

今回のクリスマスコンサートは、前回のコンサートと同様バイオリニストの田中知子さんとのコンサート。10曲程度のレパートリーを1時間少しでこなす。場所は前回のコンサートと同じセントラル・シティホール。100人少しが座れるキャパの小さな、しかし観客席と近いおかげでアットホームな素敵なホールだ。プログラムは新しいレパートリーを数曲入れただけで、他はちょっとしたギグで弾いてきた馴染みのある曲が残り。難易度はそこまで高くはない。

一つだけ新しい点は、僕の5分程度のピアノソロ曲があることだ。フェイ・ウォン(王菲)の我願意というロマンチックな曲のピアノアレンジだ。この曲は20年前に僕が大学生のころに香港にハマるきっかけとなった曲で、事あるごとに弾いてきた大好きな曲。この曲は完全に自分のものにできている自信があった。なにせ20年弾いていて飽きない。

一方プログラムの中には2週間しか準備期間のない伴奏曲ものがあった。上手に弾ききる自信はなかったものの、一つ一つ音を確認してどういう響きを作っていけばいいかを自分なりに考えて練習した。2週間しか練習していないだけに”板につく”までには今回のコンサート以降もさらに研鑽の積まねばならないが、ソリストの田中さんが要求する水準まではなんとか持っていける。

コンサートが始まった。

2週間しか練習していない曲では、練習期間が短かったわりには頭の中がわりとすっきりと整理され「次はこう弾く」というのが音符とともに頭の中に再現された。多少のミスはあったものの、目の前で鳴るピアノの音をフィードバックし曲の表情を変えてみるという冒険をする余裕も、ミスしてもそれを含めて自分自身だと言い聞かせる余裕もあった。音楽は最後まで流れて、田中さんともども拍手をいただけた。有り体に言うと、うまくいった。

プログラムの中盤、僕のソロ曲の番。

20年弾き続けた思い出の曲。間の取り方、盛り上げ方。それら含めて曲の細部まで丁寧に表現できる。もちろん楽譜はいらない。寝てても弾ける。グランドピアノの蓋が全開となり、僕はピアノ椅子にすわって少しだけ目を閉じる。すぐに弾き始めるのでは、聞いている方たちに音楽が始まる前のあの素敵な瞬間を味わってもらえない。僕の好きな曲をたっぷり聞いてもらうには、ちょっとした演出が必要なのだ…

そして20年間そう弾いてきたように、わざとらしくゆっくり鍵盤に指をおろして弾き始める。

しかし。

開始20秒、前奏が終わるころ妙な違和感を感じる。出したい音が出ない。そんな強いタッチで弾いているわけではないのに音はカンカンと硬質で、割れて聞こえる。試みにペダルを必要以上に長く踏んでみるが音が汚く濁っただけで期待した効果は出ない。今弾き終わろうとしている前奏は幻想的で、例えるなら霞がかかった遠景であるべきなのに、実際に出ている音は騒々しいコマーシャルのBGMのよう。どうしよう。こんな演奏では僕が20年親しんできた曲が台無しだ。

僕が聞いてもらいたいのは、こんな音じゃない!

右脳が演奏を拒否し始めた。同時に僕の指はたちまちもつれた。なんとかコントロールを保とうとしたが、一度拒否した右脳は指に全く指示を伝えない。両手が体から切り離されているような感覚。次はラだったか? それともドだったか? 思い出せない。しかし僕の左脳は「20年も弾き込んだ曲で間違いが起こるわけがない」と演奏を続けることを要求した。演奏を拒絶する右脳と演奏を続けたい左脳が大喧嘩を始める。とはいえ肝心の音楽はすでに死んでいる。そんな中、あるイメージが頭の中に生まれた。

僕は浜辺を背にして首くらいまで海水につかっている海の中にいる。もう数歩進めば完全に顔が沈んで呼吸が出来ずに溺れ死ぬ。それが分かっていながら進まざるを得ない。そんな状況に追い込まれている気分になった。

そんなイメージが頭に浮かび上がった後、脳みそがハレーションを起こした。頭の中で何か白いものがスパーク、喉が干上がり、全身が心臓になったのではないかと思うほど脈拍が大きい。海の中に完全に沈み呼吸ができなくなる前に、脳みそが白旗をあげた。そして演奏が完全に止まった。想像の中で溺れ死ぬことと引き換えに。

エゴが産んだ惨事

「ごめんなさい、曲忘れちゃいました」

最後の力を振り絞って鍵盤から手を離し、茫然自失の状態で客席に向かってようやく絞り出した言葉がこれである。その瞬間の僕の顔をカメラで撮れば、フラッシュ焚かずとも真っ白に写っただろう。次にこみあげてきたのが恥ずかしさ、怒り、惨めさ、情けなさ。自分には全く生きている価値がないように感じる、最悪の瞬間。しかしこの場をどうする。観客に「忘れちゃいました」と言ったその後はどうする。

結局、「もう一回同じ曲弾こう」と決め、寝てても弾けるはずなのに本日のソリストの田中さんに楽譜を持ってきてもらい譜めくりをお願いした(ソリストに譜めくりをお願いするなんて聞いたことがない。どういうロジックでそう思い至ったかは自分でも分からない。人はパニックになると本人でも全く想定していない行動に出てしまう)。

どういうふうに弾いたかは記憶にないが、音が鳴って最後まで弾いたということは自分の指は動いていたのだろう。

プログラムは進行する。曲の合間のたび先程の記憶が蘇って引きずり込まれそうになるが残りの曲をなんとかこなし、コンサートは終わった。聴きに来てくださった方からのフィードバックはおおむね好評だったようだ。ようだ、と書いているのは今この時点で自分のあのソロ曲の評価を聞くのが怖すぎて聴きに来てくれた方に直接「どうだった?」と聞く勇気がないからだ。

曲の途中で止まるのは、音楽的には大惨事である。なぜこの大惨事が起こったのか。これは、今のところ自分のエゴが原因だと考えている。

“我願意”にあまりに思い入れが強すぎて曲を意地でも組み伏せてやろう、魂を吸い取られるような良い演奏を聞かせてやろうとする欲、エゴがあったことは間違いなく、一方で2週間しか練習しなかった曲にはエゴはなかった。というより、エゴを曲に塗り込められるほど余裕がなかった。

演奏を思うがままにコントロールしたい。そのエゴが今回の惨事の原因ではないか、というのがおぼろげな結論だ。しかし演奏をコントロールしたいと思うことは演奏者として当然の欲求ではないのか?

エゴを手放す

音楽であれ何であれ、人は生きていくうえで何かを表現する。そしてどんな表現でも熟達に至る道がある。人によってはその表現が仕事の成功であったり、ボランティアでより多くの役に立つことだったりする。その表現方法の熟達を望むのは人として素晴らしいことだ。そういう前向きなエネルギーこそが人を勇気づけ、ひいては社会を活気づける。

ただ、そのエゴが行き過ぎて「コントロールしたい」から「コントロールできるはず」に変わってしまえば、要注意だ。そのエゴはコントロール対象との健全な関係を損なう。コントロールできるはずのことに失敗した場合、対象に怒り、憎み、それを手放してしまう。

この「コントロールしたい」と「コントロールできるはず」は文章にすると自明の境界があるように感じるが、実際の運用においてはその境目はかなり微妙だ。大人になって、いろんな事象をコントロールできるようになってくると「したい」から「できるはず」が多くなる。

今回の演奏も自分にとっては「できるはず」だった。エゴが先に出て、何が何でもコントロールしてやる、自分にはそれができるという驕りがあった。

これが示唆することは大きい。

日々人は自分をコントロールしている。懸命に働くよう自分をコントロールし、抜け目のない判断ができるよう自分をコントロールし、誰かからの評価が上がるよう自分をコントロールする。そのコントロールには「向上したい」とか「より成功したい」というエゴが含まれている。それは決して悪いエゴではない。絶え間ないコントロールを通じて自分という人間を鍛錬していくプロセスは建設的で健康的なエゴである。

ただそうやって生き慣れると、傲慢になる。知っていること、できることに虚心坦懐でい続けることは難しい。日本人ピアニストの内田光子がよく言うように「ピアニスト本人は、自分が演奏する曲を初めて聞く曲のような新鮮な驚きをもって演奏しなければならない」というが、そんな境地に達することなんて一生かかってもできそうにない。弾けば弾くほどほど「よく知っている曲なんだからコントロールできるはずだ」というエゴが必ず頭をもたげてくるからだ。

それでも、今回のエゴがコンサート中に出て悲惨な体験をしたのは良かったと思う。万能感に近い自信を抱えてステージにあがり、1分も経たないうちに自分はこの世でもっともみじめで無力な人間だと感じる機会はそう多くはない。そして来て下さった方には誠に申し訳なく思う。自分のエゴのせいで聞きたくもない音を聞かせ、見たくもない醜態を見せた。ごめんなさい。

音楽が始まる瞬間。

どれだけ練習を積んだ曲でも、その瞬間にできればエゴを手放していたい。もちろんそれは簡単ではない。これからも折に触れて今回の痛みをしっかりと思い出していきたいと思う。

書いてる間に日本酒を一合空けてしまった。皆様、よいお年をお過ごしください。